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【書評】語彙力がないまま社会人になってしまった人へ

 
タイトル:語彙力がないまま社会人になってしまった人へ
著者:山口 謠司
 
【まとめ】
引用が多いのはほとんどが読書メモだからです。社会人になっても使わない言葉ばかりなので参考程度に覚えておく程度かなと思います。
私が理系だからなのかな。文系の方は営業の時に難しい言葉を使うのだろうか。
私が下記の中で使う・聞いたことがある言葉は「忖度」、「順次・逐次・随時」、「踏襲」、「瑣末」くらい。
私はメールを書いていて、「慇懃無礼だ」と前の会社のパワハラ上司に言われてから、バカ丁寧な言葉を使わなくなりました。
むしろ今は横文字のビジネス用語の方が覚えなくてはいけないことが多い気がする。
 
 
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以下は読書メモに近いものです。
 
拝承(拝承)
「わかりました」「了解しました」では社会人としては軽すぎる
「その大事な要件を承りました」というようなときに使う「承る」という感じと合わせて、「拝承いたしました」と伝えれば、品格を感じさせる美しい表現となります。
 
幾重にもお礼を申し上げます
洗練された言葉で、一度だけ深く感謝するスマートさを持とう
~中略~
今では、脳のしわと頭の良さには関係がないとわかっていているようですが、もしかしたら、「心の襞(ひだ)」と「脳のしわ」は、同じことを別の言葉で言っているのではないかと思うのです。
「心の襞」がたくさんある人は、感受性が高く、多くのことを繊細に感じることができます。
 

 私は「心の襞」がたくさんありすぎるんですかね。HSPの人はそうなのかもしれない。人の機微に反応して、心を痛めたり、病んだりする癖を何とかしたい。

 
慶賀(けいが)
漢字の中に「鹿」をみつければ、気後れなくあいさつで使える
~中略~
「隆昌(りゅうしょう)」という熟語は、「隆」「昌」ともに「どんどん盛んになる」という意味の言葉ですが、その「盛んになる姿」がそれぞれ違うということを知っておいてください。
~中略~
「言祝ぎ(ことほぎ)」という言葉がありますが、これは、相手に対して「素晴らしいですね」という言葉を伝えれば、相手もそうなり、それが自分にも帰ってくるということを意味する言葉です。
 
敷衍(ふえん)
ビジネスシーンでよく言われる「抽象的なことを具体的にする」とは
~中略~
「敷」という漢字は、「布団を敷く」「風呂敷」「敷設」というように使われることが多いのですが、これはもともと「平らにして広げる」というようなことを意味するときに使います。
 
「チャンク・アップ」「チャンク・ダウン」
分かりやすく言えば「チャンク・ダウン」は「塊をほぐすこと」、「チャンク・アップ」は「細かいものを塊にすること」です。
 
忖度
よく出てきて困る地位がある人が使いがちな言葉
相手の思うところがどのあたりにあるかということを知るということを言いする言葉なのです。
 
順次-順番に次々に
逐次-能動的に「はい次!はい次!」と追いつめるように「次から次に」物事をこなしていくような順番
随時-「時に従って」と読むことができますが、これは本来「その時の条件に従って」という意味
 
傍ら痛い(かたわらいたい)-「側にいたり、側で見ていて、痛々しく感じてしまう」という意味
 
斟酌する
「忖度」とよく似ているのですが、「相手の事情や心情を汲み取ること」、また「汲み取って手加減すること」から、「遠慮する、言動を控えめにすること」という意味で使われます。
 
溜飲を下げる
「胸をすっきりさせる」
「不平・不満を解消して気を晴らす」
 
踏襲
前任のやり方などを受け継ぐこと
 
瑣末(さまつ)
重要ではないことを表現
 
惹起(じゃっき)
「惹き起こす」という意味
 
宥和(ゆうわ)
受け入れて「和んだ」状態にする
 
内聞(ないぶん)
内々でこっそりと聞くこと、「表ざたにしない」「秘密に」
 
偏頗(へんぱ)
「かたよって不公平なこと」、「依怙贔屓」という意味
 
あまつさえ
「その上」という意味と、「驚いたことに」「あろうことか」という意味があります。
 
縷説する
よく言えば「丁寧」、悪く言えば「くどい」
 
分限者
「身分の高い人」「才能のある人」「お金持ち」あるいは、これらを兼ね備えた人というものです。
 
師事・兄事
尊敬しながら技を盗むこと
 
一竜一猪(いちりょういっちょ)
学問に邁進するとしないとでは、あとになって「竜」と「豚」のような遥かな違いとなって表れるという意味
 
堅忍不抜の志(けんにんふばつのこころざし)
堅くこらえて、ぐらつくことのない心ということを意味します。
 
棺を蓋いて事始めて定まる
人は、棺桶に蓋をされてはじめて、その生涯の価値が決まる。つまり、死ぬまでは人の真価を判断することはできないという意味なのです。